京都大学サッカー部の歩み=そのⅢ

節目の50周年

私学の台頭

1971年から4年間守った1部の座。しかし、サッカーを強化する私学の台頭は目覚ましい。72年に京都産業大学、74年に大阪体育大学が1部に昇格。京大が74年の入替戦で敗れた天理大学は翌75年、1部3位に食い込んだ。

こうした中で、76年の第5回関西学生サッカー選手権(関選)で京大は準決勝で大体大に敗れたが、3位決定戦で関学をくだしている。リーグ戦では、1部復帰2年目の78年、6位で入替戦となり、またもや天理大に敗れた。

3部から4年で1部へ

2部では80年、83年、84年に1部との入替戦に臨んだが、壁は厚かった。そして85年に2部最下位となり初めて3部落ち。これは1年で脱出して87年には2部へ。そして、89(平成元)年に入替戦で天理大に勝って、念願の1部復帰を果たした。入替戦で二度苦杯をなめてきた天理大への見事なリベンジだった。

90年は1部最下位となり2部に逆戻り。翌91年からは関選の予選リーグだった春の公式戦を「春季リーグ」として組み入れ、リーグ戦は春秋連動の2シーズン制となった。新人の成長を待ちたい京大には不利な変更だった。

定期戦の充実

87年に大阪大学との定期戦が始まった。また、2013年からは京都教育大学との定期戦も行われている。

改革の21世紀

Jリーグの影響

93年、Jリーグが開幕するとバブルのようなサッカーブームが起きた。高校、大学でもサッカーは注目の的。大学では「スポーツ推薦」「特技入試」「一芸入試」などで有力高校から即戦力の新人が供給されるようになった。京大は90年が最後の1部。自動入替(2部優勝)はもちろん、入替戦出場も91年秋、93年春以来、経験していない。

環境整備

関西学連は関西勢強化のために、矢継ぎ早の改革を行った。98年秋季から1、2部は10チームに。2008(平成20)年からはリーグを通年制に移行し、1部は12チームとなった。21年から4部制となり、1~3部は12チームで構成されている。

京大は3部落ちを経験しながら、環境の変化に対処してきた。知恵を絞ったのが組織改革だ。13年から、練習内容の設定やリクルーティング、トレーニング、広報活動などを部員が分担して行うようになった。「記録」を重視し。試合の模様を録画・撮影したり、年間の活動をまとめたイヤーブック発刊も始めた。

選手層を厚くするために、試合に出ることが少ない選手たちが公式戦を経験できる「I(Independent)リーグ」に14年から参戦。この年には農学部グラウンドが人工芝になり、練習環境は格段に良くなった。

変わらぬたたずまい

仮設だがスタンドもでき、「BOX(ボックス)」と呼んできた部室も建て替えられた。

大勢のOB・OGや父母らが、美しい緑のピッチで躍動する選手たちに拍手を送る。100年前と変わることのない大文字と比叡の山並み。青春を駆け抜ける姿を温かく見守り続ける。