京都大学サッカー部の歩み=そのⅠ
(本文は、50年史P.16~20の1940年卒・唐原友三郎さんの寄稿より)
黎明期から黄金時代へ
産声
京都大学蹴球部の誕生は、東京大学の蹴球部員が旧制高校でともにボールを蹴った京大在学の旧友に呼びかけたのがきっかけだった。創部に先駆けて1925(大正14)年春、東大を相手にホームで練習試合が行われた。この時は2-1で勝利。第1回東大戦と言いたいが、正式には同年秋、1-1で引き分けた両大学各部対抗戦の時からだった。
練習試合とはいえ、観戦していた荒木寅三郎総長(当時)の目の前で東大に勝ったのだ。学友会の部として認められる大きな力となった。
※現在の東大定期戦(双青戦)は1949(昭和24)年に始まった。2022年現在71回(20年から3年間は新型コロナ感染対策のため中止)
※創部当時、蹴球といえば「ラグビー」だった。京大でもラグビー部が「蹴球部」として存在し、日本屈指の強豪として活躍していた。新聞などはサッカーを「ア式蹴球」と表現。英語の「アソシエーション・フットボール」を略した用語だ
リーグ参戦
関西学生ア式蹴球連盟(現関西学生サッカー連盟)には25年に加盟し、26年からリーグ戦に出場した。この年は実力を出し切れなかったのか、7校中4位。そして27(昭和2)年、関西学院と同率で優勝を果たす。
28年は第8回全日本ア式蹴球選手権大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)に出場し、決勝で早稲田WMWに1-6で敗れた。関西リーグでは神戸高商(現神戸大学)、関学に敗れ、3位に甘んじた。
29年は関西リーグ戦の最中に英国支那艦隊ケント号、ヘルメス号の乗組員チームと戦い、さらに第9回全日本ア式蹴球選手権大会にも出場した。優勝をめざした関西リーグは、関学に1-3で苦杯。30年、関西リーグで再試合の末関学に勝ち、初の単独優勝を飾った。
無敵の黄金期
31年の関西リーグでは関学に優勝を奪還されたものの、翌32年から34年まで3年連続優勝を達成。黄金時代を築いた。
しかし、関東リーグ1位と対戦する東西優勝校対抗戦ではついに勝てなかった。31年は1-2慶応、32年は2-5早大、33年は0-3早稲田というスコアだった。
戦争の足音
歩調は着実
35、36年は3位。37年に優勝したが、東西優勝校対抗では慶応に敗れた。次に優勝した41年は日米開戦の年。戦時下のため京阪神3地区の代表による決勝リーグで勝者を決めた。元の方式に戻った42年は3位となり、秋季関西学生トーナメントは準決勝で関学に敗れた。
中断、そして惜別
リーグ戦は同年後期から終戦の45年まで中止。戦争がなく学徒動員がなければ、また優秀選手が戦死しなければ、どんな成績を球史に残しただろう。